日々是総合政策No.200

日々是総合政策200回を記念して

 「日々是総合政策」が今回で200回を迎えます。今後も300回、500回、1000回と続くことを期待しております。
 私自身は今回を含めて20回書かせていただきましたが、毎回、どのテーマで書こうかとワクワクしながら取り組んでいます。この間、読んでいただくことを意識して、やや大胆な表現を用いたり、あまり注目されていない論点を提起してみたりと、何とか知恵を絞りだしています。時には言いたいことが十分適切に表現できないことに焦りを感じたり、主張を裏付ける資料・証拠をいかに簡潔に示すかに苦心したりしています。
 皆さんは、800字前後で文章を書いてみなさいと言われたら、どう感じますか。テーマをどのようにして探すのか、誰を念頭に何を訴えたらよいかなど、苦労されるかもしれません。
 私は、年少の頃から文章を書くのが大の苦手でした。ところが、今では書きたい、取り組みたいテーマが常に10個以上あり、毎回、どれを選ぶかに苦労しています。言いたいことも常に5つ6つあるせいか、毎回、分量オーバーとなり、いったん書き上げたあとには一部を削る作業が待っています。
 どうして自分は変わったのかを振り返ると、その答えが大学生時代にあることに思い至ります。富山から東京に出てきたばかりの私は当初、高層ビルを眺めては、この広い東京で自分の居場所はあるのか、自分は間違って東京に出てきたのではないかと不安だらけでした。
 そうしたときに、「君は大学で何を、何のために勉強するのか」「勉強してそれをどう活かしたいのか」など、簡単そうで実は非常に難しい問題を毎日のように投げかけてくる先輩がいたのでした。そのあたりから自分だけの狭い世界に限界を感じ、疑問を持ち、文字通りゼロからの勉強が始まったように思います。
 大学生時代にそういう人たちと出会ったことで、自分とは異なる人の存在、異なる意見を持つ人の存在を知り、自分の答えを他人にはっきりと伝えることの重要性を悟ったように思います。そのとき以来、私にとって、多様性(diversity)と包摂(inclusion)、そして自分の意思を積極的に伝えることは、最も重要な価値になったと思います。このような私を受け入れてくださる総合政策フォーラムの存在は、私にとって「永久に不滅」です。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策No.193

Stay-at-home考(2)

 人々はなぜ自粛して、家にとどまろうとするのか。政府が呼びかけるからか。恐らくそういう人も一部にはいるだろう。しかし、圧倒的多数の人にとってはそれは、感染症に関する様々な不安、つまり自分や周りの者が感染して隔離され、死亡したり、後遺症を患ったり、あるいは感染した事実が周りに知れて差別されたり、職や収入を失ったりすることを避けたいからであろう。
 では不安の払しょくは可能だろうか。不安が完全に払しょくされるには感染症が完全に消え去ること、つまり終息する以外にはない。また、不安がある程度軽減されるには感染症の拡大が収まり、低い水準にとどまること、つまり収束することである。
 人々ができる限りの自粛やstay-at-homeを続けた結果、感染症が収束に向かったとしよう。そうすると恐らく、政府は自分たちの呼びかけ、つまり自粛要請、時短(営業時間短縮)要請が成功したからであると考えるに違いない。しかし、実際には人々の強い不安が自粛やstay-at-homeを招いたのであり、政府が呼びかけたからではない。
 菅首相は、11月26日の会見で、マスクを着用せずに、「是非ともマスクの着用、手洗い、そして3密の回避という、感染拡大防止の基本的な対策に是非御協力いただきたいと思います」(https://www.kantei.go.jp/jp/99_suga/statement/2020/1126kaiken.html)と語った。
 街を歩けば、すでにほとんどの人がマスクを着用し、入室・入館時に消毒液で手を洗い、3密を避けるように行動している。中には二重マスク着用の人もいる。こうした状況で、首相の呼びかけは、すでに個人がやっていることを続けてくださいと言っているだけで不安の払しょくとは無縁のメッセージである。
 それどころか、感染症の第3波が到来し、4日間で1万人の感染者が発生しているにもかかわらず、移動や会食を増加させようというGoToキャンペーンを続けている。一方では自粛やstay-at-homeを求めながら、他方では自粛やstay-at-homeを否定するような策を講じている。
 そもそもGoToキャンペーンは、感染症が収束し、人々の不安が大幅に軽減された状況ではじめて検討の余地があるものであり、感染症拡大の不安が増大している状況で実施すべきものでは断じてない。
 GoToキャンペーンは、人々の不安を増大させるばかりで、人々をますます自粛やstay-at-homeに追いやり、宿泊・飲食業の支援にはほとんど貢献しない。現在のGoToキャンペーンは、矛盾した政策で効果は乏しく、危険で恥ずべき愚策であるとしか言いようがない。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策No.188

Stay-at-home考(1)

 新型コロナウイルス感染症問題が社会経済問題となってから、「自宅にとどまる」機会が圧倒的に増えたに違いない。また、移動の際にはなるべく公共交通機関を避けて自家用車、自転車や徒歩に頼る機会も増えたに違いない。
 私の場合には、公共交通機関に乗る回数、したがって交通カードを使う回数が激減した。自家用車に乗る機会は減少していないが、走行距離が絶対的に減少した。自家用車を使うのは、利用者が少ない時間帯を狙ってスポーツジムに行くときか、2週間に1回程度のシニア・ソフトボールの練習に行くときぐらいだ。ハイブリッド車なので燃費効率がもともと良い上に走行距離の絶対的減少が重なったために、ガソリンがなかなか減らず、給油回数は1か月に1回あるかどうかだ。
 こうした個人行動の変化が消費の中身を変え、様々な業種や企業に影響を及ぼすことになる。10月1日に発表された日本銀行の「全国企業短期観測調査(短観)」によると、9月の調査時点ではほとんどの業種において現在の状況(「業況」と呼ばれる)が非常に悪いという結果が出ている。特に深刻なのは、製造業では鉄鋼、繊維、非鉄金属、輸送用機械(自動車)、非製造業では宿泊・飲食サービス、対個人サービスである。
 宿泊・飲食サービスや対個人サービスの状況が非常に悪いのは、人の移動や人が集まる機会が減少し、人と人の接触を避けていることが背景にある。これらの業種は典型的な接触集約型(contact intensive)であり、stay-at-homeやsocial distancingの影響をまともに受ける。しかも、ここ数年は東京オリンピックの開催に向けて宿泊施設の増強・拡大が進行していただけに、コロナ禍の影響は極めて深刻だ。
 政府が推進するGo Toキャンペーンの対象には、宿泊・飲食サービス業が含まれ、そのお蔭で一部にプラスの影響が出始めている。しかし、それは当該業種すべての企業に広く行き渡るものでなく、期間限定の一時的効果でしかない。しかも、social distancingのもとでのキャンペーンであり、急ブレーキを踏みながらアクセルを強く踏むような措置である。
 感染症拡大の第3波が到来しつつある中で、こうした一部の企業や個人を対象とした消費刺激策の効果と問題点の分析が早急に必要とされる。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策No.181

IMFの分析は日米の感染症対策の失敗を示唆する

 IMF(国際通貨基金)は、2020年10月13日公表予定の世界経済見通し(World Economic Outlook)のうち、新型コロナウイルス感染症対策を分析した第2章「大封鎖の経済的影響の解剖」を10月8日に公開した。
 第2章では、人の移動に関するGoogleのデータと、求人情報サイトIndeedの求人データを用いて、感染症流行の当初7か月間における経済・社会状況が分析される。取り上げる感染症データは89か国、移動データは128か国、求人データは22か国、地方レベルの感染症データは15か国373箇所、移動データは15か国422箇所に及ぶ。
 暫定的分析であるとはいえ、その本格的な分析は注目に値する。そこでは、以下のような重要な分析結果が示される。
 (1)強制的なロックダウン(封鎖)措置だけでなく、自発的なソーシャル・ディスタンシングも、経済と求人の縮小に大きく貢献した(2つはほぼ同等な負の経済的影響を及ぼす)。
 (2)ロックダウン措置の緩和によって経済が部分的に回復するものの、感染症リスクが終息するまでは完全な回復には至らない可能性が高い(自発的な自粛が残るので)。
 (3)移動に関するデータの分析から、ロックダウンは、女性と若年層の移動に対して、より強い影響を及ぼした。
 (4)女性の移動が強く落ち込んだのは、例えば学校閉鎖期における児童の世話や育児の負担が女性に集中したことを反映したものと考えられる。
 (5)外出自粛(stay-at-home)によって若年層の移動が他の年齢層より大きく落ち込んだ。若年層が労働所得に依存し、非正規労働に就くことが多いことを考慮すると、これは若年層と高年層の世代間格差を拡大させる可能性がある。
 (6)ロックダウンは、コロナ流行の初期に、十分に厳格に実施された場合には、感染症拡大をかなり抑制することができる。
 (7)ロックダウンは、短期的には経済を縮小させるものの、長期的にはウイルス拡大を封じ込め、ソーシャル・ディスタンシングの必要性を低下させることによって、より急速な回復を実現させることにより、経済全体にはプラスの影響を及ぼすであろう。
 上記のうち、(6)と(7)は、日米の感染症対策の失敗を示唆するものとして注目される。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策No.172

テレワークは主流になれるか?(2)

 20~30年前の過去と現在におけるテレワークの相違・類似点を整理してみると、
1.通信回線の速度・反応が速くなった(混雑による低速状況は残る)。
2.通信障害・不具合の発生が減少した。
3.常時使用の通信機器、つまり使い慣れた端末が存在する(スマホ、PC)。
4.オンライン・ミーティング用アプリケーションやSNSの進歩により、顔を見ながら話をすることが可能となった。
5.face-to-face communicationの効果は少しあるが、十分ではない。
6.個人に明確に割り当てられた(指定、指示された)仕事や作業については評価が可能でも、そうでない仕事については評価が困難で、適正報酬の確定が難しい。
7.テレワークでも、ときどき事務所・事業所にでかけるニーズは消えていない。
 上記のうち1~4は明らかな改善であるが、厄介な問題を含んでいる。また、5~7は完全に解決されていない問題である。以下では、1~4の問題について取り上げる。ここでは、自宅のパソコンで作業を行い、ときどき通信回線を使ってデータの送受信を行ったり、自宅からオンライン会議に参加するような仕事を想定しよう。この事例では、スマホしか使えない人は除外される。
 こうしたテレワーク(在宅勤務)が可能であるためには、高速・安定・廉価な通信回線(CT)の利用と情報機器・端末(IT)の常時利用が前提条件となる。現在は、こうした条件が一般に整備されていると思われるが、それだけでは解決にならない。セキュリティとコスト負担の問題がある。
 第1は、パソコンやデータを社外に持ち出せるかというセキュリティの問題だ。ファイアウォールやセキュリティ・システムで守られた社内環境とは異なる自宅環境では、パソコンやデータの紛失・窃盗・漏洩が生じる可能性がある。第2に、パソコンや通信の知識を十分に持たない素人が自宅で作業を行うと、マルウェアやコンピュータウイルスに触れる可能性が高く、セキュリティ問題を深刻化させる。第3に、通信回線、ハードウェア、ソフトウェアや周辺機器の費用(印刷コスト含む)は誰が負担するのか。仕事用パソコンと個人用パソコンの使い分けがなされない場合はどうなるか。新たな機器の導入・設置やバージョンアップの作業・費用負担は誰が行うのか。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策No.155

テレワークは主流になれるか?(1)

 新型コロナウイルス感染症問題への不安から、自宅もしくは自宅近くの駅周辺の場所を借りて仕事をするテレワークをすべきだという議論がある。テレワークは、今後の働き方として果たして主流となりうるか。
 一般社団法人日本テレワーク協会の説明によれば、テレワークとは、「tele = 離れた所」と「work = 働く」をあわせた造語であり、働く場所によって、在宅勤務、モバイルワーク、サテライトオフィス勤務の3つに分けられる(https://www.japan-telework.or.jp/intro/tw_about.html)。このうち、モバイルワークは、顧客先や移動中でのPC・携帯使用を意味する用語であり、特定の場所での働き方ではないので、以下では、自宅もしくは自宅近くの場所(サテライトオフィス)で働くテレワークについて考える。
 今から20年以上前に、サテライトオフィスの調査をしたことがある。埼玉県大宮駅西口の超高層ビルに入居していた会社を訪問したのだが、話を聞いてがっかりした。高額・高コストな通信機器・端末(当時最先端の電子黒板もあった)が設置されていたにもかかわらず、ほとんど使っていないという話だった。
 使わない理由はいくつかあった。例えば、(1)当時の通信回線の速度・反応が遅い(伝送遅延)、(2)会議をした時にはいつも通信障害や不具合が生じる、(3)たまにしか使わないので通信機器の使用に慣れない(一種のデジタル・デバイド)、(4)声だけで相手の顔が見えず、いつ大事な話になるかを緊張しながら聞くために終わった後に強い疲労感が残る、など。
 別の訪問場所では、サテライトオフィスで働くことに強い不安があるということも聞いた。(5)同じ部署の人間同士での会話がなく、雑談からのひらめきや話題の発展といった展開がない(face-to-face communicationの効果得られず)、(6)通信手段を通じて仕事のやり取りするだけで、自分の仕事がどのように評価されているのか不安に感じる、(7)ひと月のうち何度かは都心に行く必要があり、結局は勤務場所が2か所に分散され、継続的な作業ができない、など。
 現在の状況下で、これらの問題は解決済みなのだろうか。(2)以降で考えてみたい。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策No.144

感染症データをどのように読むべきか

 4月26日、元衆議院議員のタレントがテレビ番組で、日本での感染症死亡者数が欧米よりかなり少ないので、「日本は圧倒的に勝っている」と発言したそうだ。ここでは事実に基づいてこの主張を批判的に検討する。以下では、世界で最も信頼できる情報源である米国ジョンズ・ホプキンス大学のコロナウイルス・リソースセンターのデータを用いる(https://coronavirus.jhu.edu/map.html、以下の表の数値は、2020年5月6日午前11時30分現在)。
 タレントの発言は、死亡者数Cや死亡率F(=死亡者数÷累計感染者数)において日本は低いので症状は軽いと言いたいらしい。これに対して、いくつかの疑問点を出そう。
 第1に、累計感染者数のうちまだ感染したままの人の割合Eにおいて、日本はロシア・英国・米国に次いで高い。第2に、累計感染者数のうち回復者の割合Gにおいて、日本は世界平均を下回り、英国、ロシア、米国に次いで低い。これらが示唆するのは、日本は今もロシア・英国・米国と並んでコロナ収束の状況にはないということだ。
 第3に、中国と比較する。中国の湖北省以外の30地区の人口は13.4億人(2018年末、中国国家統計局「統計数据」)で、日本の10倍以上だが、累計感染者数はほぼ同数で、死亡率は0.8%だ。つまり、日本の状況は、湖北省以外の中国全体と比べて10倍以上の感染率、死亡率は4.5倍なのだ。中国各地で2か月以上の外出禁止を実施した結果が、収束(収まること)を経ての終息(終わること)だ。韓国と比べても、日本の数値はほとんど悪い。
 第4に、米国の累計感染者数は120万人近いが、検査件数は728万人強である。日本の検査件数は18.5万人(5月5日厚生労働省報道発表の累計PCR検査実施人数)で米国の40分の1。要するに、検査件数が少ないために感染者数が少なく、死亡者数も少ないのだ。実際に、感染症で死亡しても検査しなければ、感染症死亡者とみなされない。
 最後に、中国ではほぼ終息し、欧州でも(英国を除いて)収束の兆しが見える中で日本では明るい見通しがなく、さらに1か月自粛して我慢・苦痛と倒産・失職と生活困難を強いられている。それでも日本は諸外国よりマシと言えるのだろうか。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策No.136

何も学ばない日本

 2月2日、中国浙江省温州市は、道路を封鎖し、住民の移動も制限し、外出は2日に1回、家族で1人だけが生活必需品の購入のために外出できるとした。この段階で新型コロナウィルス感染者は265人だった。4月10日段階で、温州市の累計感染者数は504人、うち503人が治癒し、死亡者は1名、現在の感染者数はゼロである(感染者のデータは、「丁香園・丁香医生」サイト、https://ncov.dxy.cn/ncovh5/view/pneumonia、に基づく)。
 ちなみに、温州市は、総面積が1万2,110平方キロメートル、人口は930万人である(温州市人民政府ウェブサイト情報)。面積は新潟県に、人口は神奈川県にほぼ等しい。2月14日、日本の外務省は温州市を渡航中止勧告地区とし、今も渡航中止勧告対象である。
 1月下旬、中国東北部の吉林省長春市は、道路を封鎖し、1月末から住民の移動を制限した。移動制限は温州市とほぼ同様で、車での移動は禁止、住居の出入りは厳重にチェックされ、身分証明書(居留証)を持参しないと外出できない。知人の先生は、この制限のために、ほぼ2か月間、外出しなかった。制限緩和後も、マスク持参は当たり前、できるだけ外出は自粛とのこと。
 4月10日段階で、長春市の累計感染者数は46人、うち45人が治癒し、死亡者はゼロ、現在の感染者数は1人である。ちなみに、長春市は、総面積が2万594平方キロメートル、戸籍総人口は751万人である(長春市人民政府ウェブサイト情報)。面積は岩手県の1.3倍強、人口は愛知県にほぼ等しい。
 4月7日、日本政府は緊急事態宣言を発令し、7都府県をその対象とし、不要不急の外出自粛を要請した。しかし、外出制限はなく、一部を除き、都会の通勤客が3密(密閉・密集・密接)電車で通勤する姿はあまり変わらず、公園では学校が休みで行き場のない親子が多数集まっている。そして感染者数は毎日増加し、終息の見通しが全く立たない中で国民は日々過ごしている。
 いまはどういう状況か。疎開、感染者・死亡者の増大、自宅に閉じこもるシェルター生活。そう、今はコロナとの戦争状態であり、IMF(国際通貨基金)の経済学者は正しく、戦争状態と位置づけ、戦時対策と戦後政策を提言している(https://www.imf.org/ja/News/Articles/2020/04/01/blog040120-economic-policies-for-the-covid-19-war)。1月中旬から武漢出身の学生との交信を皮切りに、感染症を追ってきた私からすると、日本は、中国から、世界から、大事な経済政策を何も学んでいない。(以上は私見です)

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策No.131

世界にはびこる不正義を許せるか(3):「加害者にやさしい国 日本」

 2018年1月に前橋市で交通事故があり、当時85歳の男が運転する乗用車によって女子高校生2人が死傷した。その判決が2020年3月6日、前橋地裁であった。結果は無罪であった。事件の概要と無罪判決の論理はこうである(以下の内容は、上毛新聞社「女子高生死傷事故 87歳被告に無罪判決 前橋地裁 静まり返る傍聴席 遺族『頭、真っ白に』」2020年3月6日6:06配信、https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200306-00010000-jomo-l10、ニュース基づく)。
 ①男は排尿障害の薬を服用→②乗用車を運転→③急激な血圧変動で意識障害→④車は対向車線の路側帯へ→⑤路側帯を自転車で走っていた高校生2人がはねられる→⑥1人は死亡、1人は脳挫傷などで大けが
 男には、低血圧やめまいの症状があった。検察側によると、③の可能性があるので、医師は運転しないように注意していた。しかし、裁判長は、慢性的な低血圧が意識障害になった事実はない、①が③の副作用をもたらすという説明を受けた証拠はない、意識障害の発生は予見できなかった、という理由で無罪判決を行った。しかも、「事故は事実だが、男の責任ではない」とした。要するに、薬が予見できない行為を引き起こしたので男には責任がない、というわけだ。
 この判決のように、罪のない人を殺傷し、その人たちの幸せと将来の可能性を抹殺した人間に対して、ほとんど罪が問われないケースが日本では少なくない。実際、麻薬等を服用して刃物を使って無差別殺人をおかしても、責任能力がないとして無罪もしくは極めて軽い罪を言い渡すだけの判決が多い。
 高校時代に私は正義の味方になりたいと思って法学部受験を考えていた。しかし、私の考えは間違っていたようだ。日本の法律は、正義のためにあるのではなく、加害者の権利を守るためにあるかのようだ。すでに声を出して反論できなくなった犠牲者や被害者の権利には何の配慮もない。日本に正義の味方はいないのか、少なくとも裁判長は正義の味方ではなく、加害者の味方のようだ。

(執筆 谷口洋志)

日々是総合政策No.122

世界にはびこる不正義を許せるか(2):被害者と被害の権利と存在が無視される日本

 18世紀初頭に,イギリスの小説家ダニエル・デフォーは、「ロビンソン・クルーソー」の物語を発表し、クルーソーが無人島に漂流してから自力の生活を経て28年後に帰国するまでを描いた
 その生活が希少な資源を有効に利用し最大限の効用(満足)を得ようとしたかのように読めることから、経済学者は好んでロビンソン・クルーソーの世界を語ってきた。何とかその日暮らしをしてしのいでいるうちに、いろいろなことを考えて生き延びる知恵を身に着けるという点に経済学者は着目するのだが、不思議なことに、クルーソーの生活における孤独でみじめさな面には経済学者は関心がない。
 ところで、デフォーが書いた小説としてほかに『モル・フランダーズ』(岩波文庫)がある。この作品は、波瀾万丈の女性を描いた小説であり、英国女流作家V・ウルフも絶賛した傑作である。この女性は若い時期に不幸な恋愛を経験してから虚栄の結婚生活を送るようになり、中年になってからは窃盗犯として数々の犯罪を実行する。絶対に捕まらない常習犯と噂されたモルだが、最後には捕まり、米国への流刑罪となる。
 物語中には、モルがどのように窃盗を行ったかについて詳細な描写がある。デフォーは、この小説は犯罪を奨励するものでなく、一般人がこれを読んで犯罪防止に努めてほしいという教訓を込めて書いたのだと弁明している。数え切れない窃盗で得た財産を元手に、老後のモルは豊かな生活を送り、宗教心に目覚めていくという結末は、モルの人生の前半よりも後半の意義を説いたものと考えると、デフォーの主張も理解できないわけではない。しかし、被害者が被った苦痛や損害がどれだけ大きいかは、デフォーとモルの関心事ではない。
 この小説を現代の日本人が読んだら、多くの人が面白いと思うことだろう。最後は宗教心に目覚めるという結末に共感を覚える日本人も多いに違いない。しかし、私はそうは思わない。主人公のモルの描き方こそ、今日の日本の病理を表している。つまり、加害者の言い訳ばかりが強調され、被害者の存在や金銭的・物理的・精神的・心理的な被害には無関心だという「病理」だ。

(執筆 谷口洋志)

*本文の後半は、筆者の「あまのじゃくの経済学」『改革者』から一部引用しています。