日々是総合政策No.90

相手の立場に立って考える(1)

 相手の立場に立って考えてみると、見えなかったことが見えてくることがある。これはかなり汎用性のある考え方であり、きわめて経済学的な見方でもある。
 たとえば、2000年代前半に、日本の携帯電話がなぜ中国では売れずに撤退することになったのかを考えてみよう。2005年3月末から1年間の予定で上海にて在外研究をすることになった私は、当時、上海の渋谷と言われた徐家匯(xujiahui)の近代的高層ビルの2階か3階のフロアにあった携帯売り場に行った。野球場のような広さの売り場では通信機器(電話機)や情報機器(コンピュータ)が売られ、その一角に携帯電話売り場があった。
 売り場に行くと、数ある携帯電話の中で、日本メーカーの携帯電話は高機能・高品質・高級品であった。値段は最低でも2000元(3万円前後)以上で、3000~4000元の機種もあった。その価格は、多くの人の月収を上回る金額であった。私の知人も携帯電話を見に行ったが、高くて手が出せず、高根の花と言っていた。
 しかし、韓国製品や中国製品は日本製品の2分の1から3分の1の価格で売られていた。結果として、売り上げの中心が、高額商品でなく、中低額商品であったことは言うまでもない。そのとき、このような高額商品を買うのは誰だろう、どれだけの人がこれを買いたいと思うだろうかと考えてしまった。しかも、高層ビル近くには中古の携帯電話を100~500元で売る店がいくつもあった。
 まだ豊かな人が少なかった当時の上海では、若い人を中心に携帯電話を持つ人が増えていたが、中古の携帯電話を持つ人が多かった。こうした状況をみて、私は、(収入が相対的に少ない)若者が集中する繁華街でなぜ高額・高級品を日系メーカーが販売するのか理解できなかった。買う人間などほとんどいないだろうと思っていたら、案の定、日系メーカーの中国からの撤退報道が伝わってきた。いったい、どのような顔を浮かべて製造し販売しようとしたのか。おそらくは、相手のことなど眼中になかったのだろう。日本の製品・サービスに関するこうした事例は枚挙にいとまがない。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策No.74

日本的論理を疑う(3)

 1990年代の米国でインターネットを利活用した経済活動や国民生活が普及拡大し、2000年代には韓国、日本や中国でも急速に普及拡大した。当初は固定電話網を利用した有線インターネットが中心であったが、無線技術の発展に伴って3G、4Gが急拡大し、今年からは5G(第5世代移動通信網)の時代にはいった。今では、道を歩く人や電車・バスに乗る人の多くが四六時中スマホをいじっている。
 中国では、都市でも農村でも、大企業でも道端の個人店舗でも、スマホを使ってのQRコード決済が普及し、現金を持ち歩かない人も多い。市内を移動する際にも、スマホを使って近くにいる車を呼び出し、スマホを使って決済する。それを見ていると、まるで魔法のお金のやりとりに見え、ほんとうにお金が支払われ、受け取られているのだろうかと疑ってしまう。それに対して、日本では今でも現金で支払うのが普通である。
ところで、私のように、スマホを使っての決済(支払いや送金)ができない人と、スマートなスマホ操作でそれを実現する人の間での格差を「デジタル・デバイド」という。私が問題にしたいのは、この用語をめぐっても日本の定義が特殊であることだ。日本では、デジタル・デバイドを「情報格差がもたらす貧富の差や所得格差」と定義するものが多い。前回のデフレの定義と似た構図である。
 つまり、情報格差の存在=原因、所得格差=結果、という関係なのに、原因と結果を一緒にしてデジタル・デバイドと定義しているのである。でも、よく考えてみよう。パソコンをうまく使えこなせない人が就職から排除され、失業や低所得に甘んじているのだろうか。例えば、書道の先生は職に就けず、失業か低所得に追いやられているのだろうか。
情報格差が存在しても、必ずしも所得格差にならないし、そもそも所得格差を引き起こすとされる情報格差の「情報」とは一体何なのか。論理的に厳密な定義に基づく分析を十分に行うことなく、相変わらず、雑な論理で今の社会を分かったつもりの人間が多い。それは不勉強な個人だけでなく、言葉や論理を厳密にとらえない政府や研究者にも当てはまる。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策No.61

日本的論理を疑う(2)

 デフレとは、英語の本では「持続的な物価の下落」と書いてある。つまり、ある程度の期間にわたって物価が下がっていく状態のことであるから、短期または一度限りの下落であれば、デフレとは言わない。
 一方、日本では、デフレとは「物価の下落による景気の悪化」という意味合いで定義されてきた。したがって、物価が下落しても景気が悪化しなければデフレではないし、物価の変動とは無関係に景気が悪化するならばこれもデフレとは言わない。
 日本の歴代内閣は、「デフレからの脱却」を掲げてきたが、ここには「デフレ=悪い状態」という認識がある。したがって、物価が下がり続けて消費者の購買力が高まることになってもデフレとは言わない。つまり、「持続的な物価の下落」が消費者に好ましい結果をもたらすような「良い状態」はデフレでない。また、「デフレ=物価の下落による景気の悪化」とすれば、「景気の悪化による物価の下落」もデフレとは関係ないことになる。
 このように、「持続的な物価の下落=原因、景気の悪化=結果」の場合だけ、日本ではデフレと呼ばれてきたのである。原因と結果が逆の場合、あるいは原因が同じでも結果が異なる場合(つまり景気が悪化していない)は、デフレとは呼ばれないのである。
 その一方で、消費者物価(皆さんが普段購入する商品・サービスの価格の総合指数)の動きを見て、日本では15年もデフレが続いたと発言する人が多い。しかし、実際には、物価が下がった時期が多かったとしても、15年にわたって物価がずっと下落し続けたという事実は存在しない。ただし、GDPデフレーターと呼ばれる国内総生産(GDP)に関わる物価については、15年にわたって下落したという事実はある。
 デフレのように、日本では、原因と結果を含めて定義することが多い。この定義の仕方が厄介なのは、「原因=客観的事実、結果=主観的判断」であることだ。歴代内閣が「デフレ脱却宣言」を躊躇する背景には、日本だけでしか通用しないこうした特殊な定義が関係している。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策No.47

日本的論理を疑う(1)

 今年の大学1年生向けの授業で「よみやすい日本語」をテーマに取り上げた。句読点の打ち方、修飾語と被修飾語の意味、複数の修飾語の並び順、パラグラフまたは段落の意味と役割、文章の作成方法など、「よみやすい日本語」とは何かについて資料を使って説明した。
 このテーマにこだわってきた背景には以下の点がある。
 第1に、日本では自分の書いた日本語の文章について他人が批評・コメントすることはほとんどない。だから、意味不明でも誤字脱字であっても、不適切なものがそのまま活字となってしまう。その「過去は取り戻せない」まま、永久に記録・記憶されることになる。特に若い時に書いた文章にはそうした不適切なものが多数混ざっている。
 第2に、経済学の勉強を志すようになってから読んだ日本語の教科書は、何度読んでも理解できないものが多かった。当初は自分の読解力不足だと思っていたが、乱読するうちに問題は自分でなく相手、つまり著者である研究者や大学教員であると思うようになった。なぜなら、書いてある内容を全部理解できる本があったからである。
 なぜ、ある本は理解することが難しく、ある本は容易なのか。理解することが難しい原因としては、読み手の能力不足を別にすれば、以下のような理由が考えられる。
 第1は、書き手が「よみやすい」「理解しやすい」日本語に気を遣って書いていないこと。第2は、書き手の日本語表現力自体に問題があること。第3は、読み手が一定の予備知識を持つことを前提に書かれていること。第4は、公式を知っていても、その応用問題を理解するには時間がかかること。第5は、論理は簡単でも、それが積み重なると、最初の論理とあとの論理の関係がわからなくなってしまうこと。
 米国や世界で売れている経済学の英語の教科書を読むと、日本語の教科書とは雲泥の差があることに気付かされる。上記の問題点のほとんどが解決されており、分量や論点が多いにもかかわらず、すらすらと理解できるのである。どうせ勉強するなら、日本語でなく英語の教科書で勉強してみてはどうだろうか。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策 No.35

すべてを疑え

 19世紀プロイセン(現在のドイツ)の思想家・革命家カール・マルクスは、「すべてを疑え」という言葉をモットーとしていた。ただし、「すべてを疑う」ことには、自分の主張も含まれるので注意が必要だ。
 一方、「自明の理」という言い方がある。証明も説明もいらない、当然のことだ、というわけである。しかし、「当然のこと」は、どのようにして証明されるのだろうか。当然であることが、証明されなければわからないとすれば、それは「自明」ではない。したがって、「自明の理」も「すべてを疑え」の対象となる。
 ところで、「すべてを疑う」ことには、「確かめてみよう」という謙虚な姿勢が感じられ、「自明の理」には説明するまでもないという傲慢さが感じられる。だから、私は、「自明の理」派よりも「すべてを疑え」派に組したいと思う。
 このような回りくどいことを書いたのは、最近の米中貿易戦争において米国トランプ政権の主張には「自明の理」が含まれているように見えながら、実際にはそうではないことを知ったからである。例をあげてみよう。
 米国は中国に対して巨額の貿易赤字を作っている。その対中貿易赤字を米国のGDP(国内総生産)で割ると、2000年の0.8%から2010年の1.8%、2018年の2.0%へと、最近はその数値が上がっている(米国商務省経済分析局の国際貿易データによる)。だから、トランプ政権が対中貿易を問題にするのは「自明の理」というわけだ。
 しかし、中国側では何が起きているだろうか。中国が米国に対して作っている貿易黒字も巨額であることは「自明」であるが、自明でないのは、この対米貿易黒字を中国のGDPで割った数値の動きである。実は、中国側では、対米貿易黒字のGDPに対する数値は、2006年の5.2%から2010年の3.0%、2018年の2.4%へと大きく下がったのである(中国国家統計局と中国海関総署のデータによる)。米国側には自明でも、中国側には自明でないのだ。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策 No.22

評価の合理性と客観性を疑う

 株式会社ブランド総合研究所が発表した2018年版都道府県魅力度ランキングによると、ここ数年は茨城県が最下位となっている。また、茨城県(47位)の隣の栃木県(44位)や群馬県(42位)など、総じて北関東の評価が著しく低い。北関東の3県は、総合的に見てほんとうに魅力が乏しいのだろうか。
 私の個人的評価では群馬県は全国最高の温泉県であり、毎年そこに行くことを楽しみにしている。少なくとも私の出身県である富山県(22位)や隣の石川県(11位)よりは評価が高い。
 問題は、茨城県の最下位である。県南部には、日本第2の湖「霞ケ浦」の東側にあり、「潮来花嫁さんは・・・」で有名な潮来市があり、湖の対岸(西側)には土浦市、その西側には先端技術都市の「つくば市」がある。県東部には海岸や海産物が魅力的な「ひたちなか市」や大洗町、東北部には工業都市の日立市、その先の最北部には北茨城市がある。
 北茨城市には、あんこう鍋の「どぶ汁」で有名な平潟港、岡倉天心(思想家)や横山大観(画家)が拠点を構えた場所として有名な五浦海岸、「赤い靴」「しゃぼん玉」や「七つの子」などの心に残る歌詞をたくさん残した野口雨情の生家や記念館がある。どこも、またいつか訪れたい場所である。
 県中心の「水戸市」には、第9代水戸藩主の徳川斉昭が築いた偕楽園があり、その東には水戸黄門(徳川光圀)を祀った常盤神社があり、東南には仙波湖がある。仙波湖では、仲間と戯れるブラック・スワン(黒鳥)や白鳥の姿が目を引く。
 私は毎年6月、仙波湖の周りを走る「茨城メロンメロンラン」に参加している。第4回目の今年は6月16日(日)に開催される。私は3回連続の参加で、今回は5キロを走る。メロンメロンランの魅力は、途中の2か所(給メロン所と呼ばれる)で生産量日本一の茨城県産メロンがふるまわれることだ。今年は昨年以上に食べるぞと今から意気込んでいる。
 こんなに魅力満載の茨城県の魅力度がなぜ最下位なのか理解に苦しむ。現地のことをある程度以上知っている人とほとんど知らない人の個人的評価を足して合計する(集計する)ことに、いかなる合理性や妥当性があるのだろうか。(ちなみに私は茨城県とは縁もゆかりもない。)

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策 No.10

中国は先進国か?

 10年近く前のこと、2010年に中国が日本を経済規模(GDP=国内総生産という指標によって測られる)で追い越し、世界第2位になったことが報じられた。多くの日本人は驚きながらも、あれだけ人口が大きいのだから全体規模では追いついても1人当たり平均ではまだまだ大きな差があると自らを慰めていた。今もこのように思っている人が多いとしたら問題だ。
 IMF(国際通貨基金)の最新統計(World Economic Outlook Database、2019年4月)によると、2000年段階で、中国の経済規模は日本の4分の1だった(1990年には日本の13%だった)。それが10年後には追いついたのだ。この勢いは若干弱まっても、現在も高速であることは間違いない。実際、2020年には中国の経済規模は日本の2.8倍となり、2023年には3倍を超えると予測されている。
 1人当たり平均の経済規模(米ドルで測った名目GDP)をみると、2000年に日本は中国の40倍だったが、2010年には10倍にまで縮小し、2020年には4倍弱にまで低下する。日本の1人当たり平均の名目GDPを約4万ドルとすればすでに中国は約1万ドルとなる(IMFの予測では、2019年の場合、日本は4万1021ドル、中国は1万153ドル)。
 前回見たように、1人当たり平均の経済規模1万2000ドル以上を高所得経済=先進国経済とすると、中国は先進国に近いところまで来ている。実際、IMFの予測では、2021年に約1万2000ドル、2024年には約1万5000ドルになるとされている。つまり、数年以内に、中国は先進国の経済水準に達するということだ。
 中国の勢いは経済だけにとどまらない。今や、理工系の先端技術分野では中国は米国と並ぶ「2強」となり、科学技術分野をリードしている。人工知能(AI)の研究開発水準でも「米中2強」であり、中国の自動車製造・販売は米国+日本の合計を上回り、世界の工場で働くロボットの約3割は中国国内で稼働している。2019年3月末の移動電話ユーザー数は16億(15億9655万)で、日本(2018年12月末、1億7261万)の10倍近い。(それぞれの数値は、OICA=国際自動車工業連合会、IFR=国際ロボット連盟、中国工業情報化部、一般社団法人電気通信事業者協会、が公表する統計資料に基づく。)
 中国に対する我々のイメージと理解は大幅に修正される必要がある。

(執筆:谷口洋志)

日々是総合政策 No.2

マレーシアの「ワワサン2020」

 2018年5月にマレーシア首相に返り咲いたマハティール氏はすでに90歳を過ぎたというのに今も若々しい。マハティール氏は、かつて1981年から2003年までの約22年間にわたって首相の座にあり、日本の勤労精神を学ぼうという「ルックイースト政策」を1981年に提唱した人物として日本でもよく知られている。
 そのマハティール首相時代の1991年に、重要な長期ビジョン「Wawasan 2020(Vision 2020)」が発表された。ワワサン2020は、2020年までにマレーシアを先進国にするという目標である。そのために年7%の経済成長を通じて10年間に経済規模を倍増させるという数値目標が設定された。それだけをみると、日本政府が1960年代に掲げた「国民所得倍増計画」や、中国政府が1980年代以降掲げてきた10年倍増・20年4倍増計画と変わらない。
 しかし、ワワサン2020は、量的な成長戦略ではない。ワワサン2020は、国民の結束と社会的結合、経済、社会正義、政治的安定、政府のシステム、生活の質、社会的・精神的価値、国民の誇りと自信といった面での「先進国化」を狙ったものだ。
 その2020年が来年やってくる。経済面での「先進国化」目標はどうなったか。世界銀行の経済区分によれば、2017年時点での1人当たり名目国民総所得(GNI)が1万2036米ドル以上であれば、高所得経済、つまり先進国経済に分類される。2019年4月9日にIMF(国際通貨基金)が発表した統計によると、2020年におけるマレーシアの1人当たり名目GDP(国内総生産)は1万2100米ドルと予測されている。GNIとGDPという違いはあるが、2020年にマレーシアは先進国の経済水準に到達することが確実である。
 しかし、所得水準だけをみてマレーシアが先進国化したと判断することは早計だ。日本の国民所得倍増計画は、目標を超過達成したという意味では成功したが、環境を大幅に悪化させたという点では失敗だった。経済だけでなく、政治、社会、精神、心理、文化の面でも先進国化を目指す「ワワサン2020」は、もしかすると、日本を反面教師として見習おうという、もう一つの「ルックイースト政策」だったのか。

(執筆:谷口洋志)