日々是総合政策No.166

産業構造5

 こんにちは、ふたたび池上です。第7−10回は、経済発展に伴い経済の中心が農業から工業にシフトするルイス・モデルとハリス=トダロ・モデルのお話でした。今回は、ハリス=トダロ・モデルの続きで、農業、都市インフォーマル部門、都市フォーマル部門という3つの部門のどの部門で投資が進むと人々の生活水準が向上するかというお話です。
 まず、都市フォーマル部門に投資した場合ですが、都市フォーマル部門の労働者の人数と労働者一人あたりの所得のどちらか、もしくは両方が増加します。どちらが増加するかはっきりしないのは、都市フォーマル部門の賃金および雇用量は、需要と供給に応じて決まるのではなく、離職を防ぐ、やる気を高める、生産性を高めるなどの理由から、現在の労働者の所得・栄養状態・健康・福利厚生を高めに設定・維持されるように決まるという仮定があるからです。
 しかし、都市の期待所得も同時に増加し、より多くの人が農業から都市に移動し、都市フォーマル部門に職を得られなかった労働者は都市インフォーマル部門に職を得ます。都市インフォーマル部門は賃金ゼロの最も貧しい部門です。都市フォーマル部門への投資は、都市インフォーマル部門の拡大をもたらし、都市全体の生活水準を悪化させる可能性があるのです。これをトダロの逆説と呼びます。
 次に、農業部門に投資した場合ですが、こちらは需要と供給に応じて賃金と雇用量が決まるので、農業部門の労働者の人数と労働者一人あたりの所得は増加します。都市インフォーマル部門の労働者は農業に移動し、都市インフォーマル部門は縮小するので、都市全体の生活水準も向上します。ルイス・モデルとハリス=トダロ・モデルの両方において、経済発展のエンジンは工業化だったとしても、農業部門の発展も重要という結果が得られました。
 私からの日本語のお話は今回が最後で、次回以降は英語のお話の予定です。

(執筆:池上宗信)

日々是総合政策No.115

産業構造4

 こんにちは、ふたたび池上です。第7−9回は、経済発展に伴い経済の中心が農業から工業にシフトするルイス・モデルとハリス=トダロ・モデルのお話でした。今回は、ハリス=トダロ・モデルの続きで、個人が農業(農村)から都市に移動するかしないかという意思決定のお話です。
 前回の復習ですが、農業、都市インフォーマル部門、都市フォーマル部門の3部門の所得の大きさですが、大きい順から、都市フォーマル部門、農業、都市インフォーマル部門の所得とします。さらにすべての労働者は同質と仮定します。このとき、個人が農業に残れば農業における所得を確実に獲得できます。一方、都市に移動すると、インフォーマル部門に就業して低い所得を獲得できるか、フォーマル部門に就業して高い所得を獲得できるかは、事前にはわからず、運で決まります。期待できる所得の大きさを所得の期待値、期待所得と呼び、その大きさはフォーマル部門とインフォーマル部門それぞれの雇用量の大きさに依存します。
 前回の復習ですが、都市フォーマル部門の社長は、現在の労働者の所得・栄養状態・健康・福利厚生を高めに設定・維持し、離職を防ぐ、やる気を高める、生産性を高めるなどの理由から、賃金を下げてより多くの労働者を雇うことはしません。この仮定から、農業から都市に人々が移動しても、フォーマル部門に雇われる確率は変わらず、インフォーマル部門に雇われる確率だけが増え、都市の期待所得は減少します。農業の所得と都市の期待取得が同じになると、人々は農業に残っても、都市に移動しても同じなので、移動しなくなります。このモデルの結果は、途上国の都市部の貧しい人達の生活水準は、農村の生活水準よりも低そうなのに、彼らが農村に戻らず都市部に残る理由の一つを説明しています。
 次回は、このモデルの続きで、どの部門で投資が進むと人々の生活水準が向上するかというお話の予定です。

(執筆:池上宗信)

日々是総合政策No.105

産業構造3

 こんにちは、ふたたび池上です。第7−8回は、経済発展に伴い経済の中心が農業から工業にシフトするルイス・モデルのお話でした。今回は、その拡張版とも言える、ハリス=トダロ・モデルのお話です。
 ルイス・モデルでは、農業と工業の2部門でしたが、ハリス=トダロ・モデルでは、農業、都市インフォーマル部門、都市フォーマル部門の3部門を仮定します。都市フォーマル部門は、都市における工業とサービス業の合計、かつ、毎月、月給をもらえる安定した部門だと考えてください。フォーマルは、フォーマル・スーツ(正装するときのカチッとしたスーツ)のフォーマルで、和訳は公式です。
 一方、インフォーマルの和訳は非公式です。都市インフォーマル部門は、都市における工業とサービス業の合計、かつ、月給ではなく、日雇いなどの不安定な部門です。途上国で頻繁に観察される、従業員の人数が、社長かつ従業員の一人だけ、もしくは社長と従業員の2人だけなどの零細自営業も、都市インフォーマル部門に含まれます。ルイス・モデルでは捨象されていたのですが、途上国で実際に存在する都市インフォーマル部門を取り入れたモデルが、ハリス=トダロ・モデルです。
 3部門それぞれの所得の大きさですが、大きい順から、都市フォーマル部門、農業、都市インフォーマル部門の所得とします。都市フォーマル部門の社長は、なぜ、事業を拡大するために、賃金を下げてより多くの労働者を雇わないのでしょうか?理由としては、現在の労働者の所得・栄養状態・健康・福利厚生を高めに設定・維持し、離職を防ぐ、やる気を高める、生産性を高めるなどが考えられています。
 経済発展につれて、人々は農業(農村)から都市に移動するのですが、次回は、その移動するかしないかという個々人の意思決定のお話の予定です。

(執筆:池上宗信)

日々是総合政策No.93

産業構造2

 こんにちは、ふたたび池上です。第7回は、経済発展に伴い経済の中心が農業から工業にシフトする、工業が経済発展を牽引するルイス・モデルのお話でした。今回は、それでも、農業も重要です、というお話です。
 ルイス・モデルは、外国との輸出入のない閉鎖(鎖国)経済のモデルなので、工業の発展に伴い、労働者が農業から工業に移動すると、農業生産が縮小、食料が不足するという状態が続きます。その状態は、農業の労働者の数が減少し、農業が労働者を引き止めるために、工業の賃金と同じ額の賃金をオファーし始めるまで続きます。
 皆さんの中には、そもそも、なぜ、農業は、労働者を引き止めるようために、そのような賃金を経済発展の最初からオファーしないのかと思うかも知れません。その理由は、ルイス・モデルが、農業は、市場の原理で賃金が決まるのではなく、伝統的な村社会の原理で賃金が決まり、かつ、伝統的に続いてきた、かつての収穫量をかつての労働者の数で分け合った額に等しい、伝統的な賃金で動かないと仮定しているからです。
 さて、なぜ、工業だけでなく農業も重要なのかですが、農業が発展すると、上記の食料不足状態の期間が短く、もしくは、なくなるからです。農業が発展すると、経済発展の初期に、食料が不足し始める時期が遅く(後回しに)なります。また、農業が発展すると、経済発展の後期に、農業が労働者を引き止めるために、工業の賃金と同じ額の賃金をオファーし始める時期が早まります。これら2つの時期にはさまれた、経済発展の中期に食料が不足する期間が短く、もしくは、なくなるのです。
 この結果は、経済発展につれて経済の中心が農業から工業に移動する、経済発展が工業発展に牽引されるからといって、農業発展をおろそかにしてはいけないことを示しています。ルイス・モデルでは、経済は農業と工業の2部門でしたが、現実の途上国の経済には、工業という言葉から推測できる大きな工場における安定した職ではなく、個人レベルのとても小規模で不安定な職に従事する労働者がたくさんいます。次回はこのお話の予定です。

(執筆:池上宗信)

日々是総合政策No.78

産業構造

 こんにちは、ふたたび池上です。第1-6回は、一人あたり国民所得、その成長と、国単位のお話でしたが、今回からは国の経済成長に伴い、国内の産業構造がどのように変化するのかという国単位ではなく産業単位のお話です。
 産業単位とはいっても、国内のあらゆる産業を農業、工業、サービス業という3種類に分類します。ほとんどの国は、経済成長に伴い、経済の中心が農業から工業、工業からサービス業に移ってきました。この現象をペティ=クラークの法則と呼びます。日本では、労働人口における(農業:工業:サービス業)の比率は、1920年は(54:21:24)でしたが、2005年には(5:26:67)となりました。国内総生産(GDP)における(農業:工業:サービス業)の比率は、1950年は(26:32:42)、1995年には(2:34:64)でした。
 また、経済発展の初期には、農業の労働生産性と非農業(工業・サービス業)の労働生産性の比率が小さく、経済発展につれてその比率が大きくなることもわかっています。途上国ではその比率が0.2以下ですが、中所得国、先進国はその比率がより大きく、0.5以上の国々もあります。
 これらの経済成長に伴い、労働力が農業から非農業へ、GDPの中心も農業から工業へ、農業と非農業の生産性格差が減少するという産業構造の変化(構造転換)を説明するモデルとしてルイス・モデルがあります。経済発展以前は、国内のすべての労働力は農業に従事し、所得は平等に分配されています。生産量を労働人口で割っているので、所得は平均生産性に等しくなります。工業が起きると、工業は労働者に農業の平均生産性より高い賃金をオファーし、労働者が農業から工業に移動し始めます。このときは、農業と工業の間に生産性格差があります。工業が発展するにつれ、農業人口、農業生産は縮小しますが、やがて農業も労働者を引き止めるために賃金を増加させるようになり、農業と工業との間で労働者を求める競争がはじまります。そのときには農業と工業の生産性格差は解消しています。
 このルイス・モデルでは、経済発展は工業が牽引します。農業は経済発展にとって重要ではないのでしょうか?次回はこのお話の予定です。

(執筆:池上宗信)

日々是総合政策No.63

経済成長(続き)

 こんにちは、ふたたび池上です。前回は、絶対収束、条件付き収束のお話でした。今回は技術革新と経済成長のお話です。
 前回までの経済成長のお話は、技術革新がない場合のお話でした。その場合、すべての国の一人あたり生産量(所得)の成長率(経済成長率)は少しずつ鈍くなり、やがてゼロとなります。前々回お話した、生産関数の収穫低減の仮定により、投資すればするほど投資のリターンが小さくなり、経済成長率も鈍くなるのです。また、生産関数、貯蓄率、人口増加率が同じ国々は、同じ一人あたり資本量、生産量に収束します(条件付き収束)。最終的には途上国経済が先進国経済にキャッチアップすることが予測されます。
 しかし、現実には、先進国の経済成長率はいまだにゼロとなっていません。技術革新をこの理論(モデル)に加えると、各国の経済成長率はゼロではなく、技術進歩率に収束することになり、先進国でも経済成長を継続している現実を説明できるようになります。例えば、日本の技術進歩率が毎年2%ならば、日本の経済成長率は、経済成長につれてだんだん鈍くなりますが、ゼロではなく2%に収束します。
 この経済成長のモデルは最初に考え出したソローという人の名前から、ソロー・モデルと呼ばれ、大学の開発経済学やマクロ経済学の基礎として学ぶものです。この基本モデルの限界(不備)として、以下の2つが挙げられます。
 このモデルから、経済成長に伴い、一人あたり資本の増加、経済成長が鈍くなることが予測されます。しかし、現実のデータをチェックすると、成り立っていません。これが、このモデルの1つ目の限界です。
 また、現実のデータを分析すると、経済成長の主な源泉である、 一人あたり資本の増加と技術進歩の2つは、同じ位の値で経済成長に貢献している、つまり、経済成長にとって同じ位、重要であることがわかっています。このモデルの2つ目の限界は、それほど重要な技術進歩が、なぜ起きるのか説明できない、していないことです。
 これらの2つの限界を克服する、新たな経済成長のモデルがいくつも生み出されています。次回は、そのお話ではなく、経済成長にともなう農業の縮小など、産業構造の変化のお話の予定です。

(執筆:池上宗信)

日々是総合政策No.50

経済成長(続き)

 こんにちは、ふたたび池上です。前回は、生産関数の収穫低減、経済成長における人口と一人あたり消費のトレード・オフのお話でした。前回予告した、技術革新が起きる場合の経済成長の話は次回に延期し、今回は絶対収束、条件付き収束のお話です。
 生産関数が収穫低減の場合、資本蓄積、人口増加が進むにつれて、追加的な資本の増加、人口の増加がもたらす生産へのリターンは低減し、経済成長のスピードは遅くなります。話を簡単にするために、資本、人口の2つの変数を、資本を人口で割った一人あたり資本という1つの変数にして、話を進めます。生産関数が収穫低減の場合、一人あたりの資本の蓄積が進んだ先進国の経済成長率は、途上国の経済成長率より小さいのです。やがて、途上国の経済は先進国の経済に追いつきます、つまり、各国間の一人あたり資本および所得における経済格差はなくなるのです。世界の一人あたり資本および所得が同じ値に収束するので、絶対収束と呼びます。
 実際の経済データを用いて、この絶対収束が成立しないこと、途上国が先進国に追いついているとは言えないことがわかっています。なぜでしょうか?実は、前々回お話した、生産物のうち、どれだけ消費せずに貯蓄するかという貯蓄率が異なると、一人あたり所得が収束する値が異なるのです。また、人口成長率が異なると、一人あたり所得が収束する値が異なります。これらの貯蓄率、人口成長率の差異を考慮するという条件つきならば、一人あたり資本の小さい国は、大きい国に追いつき、一人あたり資本、所得が同じ値に収束する、というのが条件付き収束です。実際の経済データを用いた研究は、貯蓄率や人口成長率だけでなく、貿易政策などの違いも考慮して、条件付き収束が成立することを示しています。たとえば、アメリカの各州の間における、一人あたり資本、所得以外の変数の違いは、世界各国のそれらの変数の違いより小さいことが推測できます。この違いの小ささを利用し、アメリカの各州の間では条件付き収束が成立することがわかっています。
 次回は、生産関数が変化しないという仮定を外し、技術革新が起きる場合の経済成長のお話です。

(執筆:池上宗信)

日々是総合政策 No.37

経済成長(続き)

 こんにちは、ふたたび池上です。前回は、経済成長における消費と投資のトレード・オフのお話でした。今回は、前回に問いかけたままで、答えが書かれていなかった、やたらに人口を増やしてはいけないのではというお話です。
 確かに、労働を増やすと一国全体の生産量、所得は増大します。だからといって、やたらに労働、人口を増やしてはいけません。なぜでしょうか?答えは、2つの暗黙の仮定によります。1つ目の仮定は、国民の幸せを決めるのは、一人あたりの消費であって、一国全体の消費ではないという仮定です。2つ目の仮定は、生産関数が収穫逓減であるという仮定です。
 生産関数が収穫逓減とは何かですが、労働を増やせば増やすほど、追加的な1単位の労働(たとえば、1人が1日働くという労働)からえられる生産(収穫)の増加量が小さくなるという仮定です。たとえば、ある途上国のある小さな家具工場で社長自らが毎日一つのベッド・フレームを作っていたとします。マットレスの下の部分は金属、4つの足と、頭の上の部分はおしゃれなデザインに加工された木できたベッド・フレームを、社長がすべて一人で製作している場面を想像してみてください。ここで、職人を1人、2人、と増やしたとしても、一日あたりのベッド・フレームが2つ、3つと増えずに、職人を増やせば増やすほど、少しづつ、追加の職人1人によるベッド・フレームの増加量が小さくなるという仮定です。職人間で製造工程を分業化することによる生産の効率化よりも、場所や工具・機械の制約があり、混雑による生産の非効率化の方が大きい場合などは、この仮定は成立しそうです。
 この収穫逓減の仮定が満たされる場合、やたら労働、人口を増やすと、1国全体の生産量は増加しても、1人あたりの生産量、所得は減少してしまいます。そして、1人あたりの所得が減ると、1人あたりの消費が減り、1つ目の仮定より、国民1人1人ひとりの幸せは減少してしまいます。
 今までは、生産関数が変化しないこと、変化するのは資本・労働という投入と生産という産出だけということを暗黙に仮定していました。次回は、この仮定を外し、技術革新が起き、生産関数が変化する場合の、経済成長のお話です。

(執筆:池上宗信)

日々是総合政策 No.25

経済成長

 こんにちは、ふたたび池上です。前回は、国民一人あたり年間所得の増大は、貧困の減少、健康や満足度の増加をもたらすようだというお話でした。今回は、国民一人あたり年間所得の増大は、どのようにもたらされるのかというお話です。個人がどのように所得を増大させるのかではなく、一国の経済全体の生産物、所得がどのように増加するのかを捉えます。
 ある国の労働者全員を労働とし、すべての土地、工場、機械を資本とします。この労働と資本を用いて生産物が生み出されます。その生産物の売上は、賃金として労働者の所得になり、資本レンタル料として、資本所有者(資本家)の所得になります。さて、その労働者と資本家の所得ですが、一部は消費にあてられ、残りは貯蓄に回されます。そして貯蓄は投資にあてられ、投資は資本の増加分、資本蓄積となります。この一連の流れを図に、キーワードと矢印を使って書いてみてください。流れは、一回りが一年で、毎年、毎年繰り返す流れです。
 所得を増加させるためには、生産物を増加させる必要があり、生産物を増加させるためには労働と資本を増加させる必要があります。どうやら、労働と資本の増加が、所得増大の要因のようです。資本の増加は投資、そして貯蓄に等しいのですが、やたらに投資と貯蓄をしてはいけません。なぜでしょうか?また、労働の増加は、人口を増やせばよいのですが、やたらに人口を増やしてもいけません。なぜでしょうか?
 資本の増加を考えるには、まず、我々国民は上記の一連の流れのどこから幸せを得ているのかを考える必要があります。働くこと自体からの喜び、給料を家族に渡せること自体の喜びなどを簡単化のために割愛すると、我々は消費から幸せを得ています。だからといって所得をすべて消費に回してもいけません。なぜでしょうか?なぜならば、貯蓄=投資=資本の増加は、来年の生産物、所得、そして消費を増加させるからです。次回は、この話の続きです。

(執筆:池上宗信)

日々是総合政策 No.14

国民一人あたり年間所得と国民の幸せ

 こんにちは、ふたたび池上です。前回(No.4)は、先進国と開発途上国を区別するのに国民一人あたり年間所得が用いられているというお話でした。今回は、経済学者は国民一人あたり年間所得を重要視しているようだが、国民一人あたり年間所得は、国民の幸せと本当に関係があるのか、というお話です。
 まず、貧困者が少ない国ほど幸せな国だという主張に異論がある人はあまりいないと思います。ここで、貧困者の定義を世界銀行の定義にならい、一日あたりの所得が1.90ドル以下の人だと定義します。この1.90ドルは、各国の物価の違いを調整した後の1.90ドルです。1.90ドルは、円に換算すると195円です(2019年5月19日現在で入手可能な最新の世界銀行による各国の物価の違いを調整した為替レート2017年1ドル102.47円)。1日195円でどうやって生活するのか疑問に思う人は多いと思いますが、その話は将来にとっておこうと思います。国民のうち、貧困者の占める比率を、貧困者率と呼びます。国民一人あたり年間所得が小さい国ほど、貧困者率が大きいこと、関係が強いことがわかっています。2つの指標の間の関係が強いことを、相関が大きいと呼びます。
 貧困者率も国民一人あたり年間所得もどちらも所得に基づいているのだから相関が大きくて当然という反論を持つ人もいるでしょう。では、所得以外に国民の幸せを示す指標として何が考えられるでしょうか?まず、思い浮かぶのは健康でしょうか?国民一人あたり年間所得が小さい国ほど、乳幼児死亡率が大きく、平均余命が小さいこともわかっています。ただ、これらの健康の指標は、貧困者率ほど、国民一人あたり年間所得との相関は大きくありません。
 上記の所得や健康の指標は客観的な指標ですが、国民の幸せの指標として、国民の生活満足度という主観的な指標を取ることもできます。ここでも、国民一人あたり年間所得と国民の生活満足度の間に相関があることがわかっています。日本は労働時間が長すぎる人の数が多そう、自殺率が高そう、など、他の国民の幸せの指標が気になる人もいるかも知れません。それらについては、興味に応じて各自で調べてもらうことにして、次回は、国民一人あたり所得の増加の仕組みのお話にする予定です。

(執筆:池上宗信)