米・こめ・コメ
今年の夏は一部のスーパーの棚からコメが消え価格高騰に見舞われた。このコメ騒動は備蓄米を放出するか否かの議論はあるにしろ、基本的には需要と供給がギリギリのところ均衡するよう、減少する需要に併せて供給量を減反などによって政策的に誘導したことによる。昨夏の天候による供給減やインバウンド客の需要増などのちょっとした要因で価格上昇に繋がる。他の農作物と同様に価格変動は不可避である。米麦だけは大幅な変動を回避する政策的対応をしてきたが限界はある。
戦後の食料政策は圧倒的な供給不足から始まった。最終的には米国の占領政策の変更で小麦などの食料援助で食糧難は一息ついたが、同時に、日本人がパン食に慣れた。政府はコメの輸入を試みるが、昔も今も世界のコメ市場は流通量が少なく、今でもコメ主食の国はコメの安定確保に苦労している。私は農水省から出向してミャンマー(ビルマ)の大使館に書記官として勤務したが、戦後の初代出向者は後に事務次官となった人でエース中のエースだった。コメの買い付けでコメ輸出可能な重要な国だったのである。
コメには思い出がある。物心ついた頃(昭和30年前後)は東京の下町でも戦禍の跡はなかったが、親から「ご飯は一粒も食べ残すな」と厳しく言われた。家から着物を持ち出しては近隣県の農家でヤミ米と交換してきたらしい。配給では足りなかったのだ。ところで、当時、下町にはポン煎餅屋がリヤカーを引っ張って時々来る。友人と米粒を持って集まる。鯛焼きのように鉄製の直径10cm位の円形の型に米粒を数粒入れて蓋を閉め薪で熱すると、ポンと言う音でコメが弾けてポン煎餅ができる。順番を待って母から貰った米粒を渡すと、「坊や、このコメではパラパラでくっつかないので煎餅にならない。」と断られ、泣く泣く家に帰った。
東南アジア産の外米だった。米穀配給通帳を持って米屋に行けば配給米を買えるが、自給していないので外米が混じる。米屋に苦情を言うとその時だけ国産米が多くなる。闇市はなかったが、夕方になると近隣県から農家の方が頭の高さを超える竹籠に野菜などを売りに来るのだが、ヤミ米も運んでいて高価だが美味しいコメが入手できる。厳しい国際情勢の折、もう一度考えよう。米・こめ・コメ。
(執筆:元杉 昭男)