日々是総合政策No.291

スウェーデンの地方税(2)-国際比較

 今回はスウェーデンの地方税の国際的な特徴を紹介します。

表 地方税の国際比較(2021年)

(注記)対GDP比と所得税比の単位は%.

(出所)注1より.

 表は注1のOECD(2024)に基づき、北欧4国と日本・フランスの地方税を比較しています。地方税総額の対GDP比(地方税÷GDP)が高い国々を選びました。スウェーデンが15.1%とOECDの38カ国中トップです。また、他の北欧三国も高順位です。日本は7.7%でノルウェーを上回っており、筆者は意外に高いと思いました。 
 表の所得税比は、地方税総額に占める地方所得税の割合を示します。スウェーデンとフィンランドの地方所得税は勤労所得税のみで、デンマーク・ノルウェー・日本は勤労所得税だけでなく資産所得税を含みます(注2より)。たとえば、日本では利子・配当・株式のキャピタルゲインなども5%の地方税が課されます。
 この所得税比でもスウェーデンが97.4%とトップです。同国の勤労所得税以外の「地方税」は地方住宅負担金です。ただし、これは国が同負担金をいったん徴収し、それを補助金としてコミューン(市町村に該当)に配分しています(注3より)。しかも、同負担金が地方税に占める割合(2.6%=100-97.4)も低いので、本コラムでは、勤労所得税をスウェーデンの唯一の地方税と考えます。
 日本とフランスは所得税比が低いですね。フランスはゼロです。同国では、固定資産税や消費関連税(消費税を含む)が地方税です(注1より)。日本は、所得税の他、法人関連税・固定資産税・地方消費税などが地方税です。
 スウェーデンは、対GDP比で見て国際的に最も高率の地方税を、勤労所得(労働所得+年金等。本コラムNo.289を参照)税のみで調達しているわけです。

  1. OECD (2024) Revenue Statistics – OECD countries: Comparative tables
    https://stats.oecd.org/viewhtml.aspx?datasetcode=REV&lang=en#
  2. PWC (2024) World Tax Summaries Online
    https://taxsummaries.pwc.com/
  3. Riskrevisionen (2022), Statens finansiering av kommunerna, RIR (2022:1) p.17.

1と2は、2024.1. 25参照。

(執筆:馬場 義久)

日々是総合政策No.290

アーロン収容所

 朝の通勤ラッシュのピークを過ぎた地下鉄の車内で、向かいの席の若い女性が一生懸命化粧をしていた。口紅を少し直すのでなく本格的だ。化粧は化けると意味を含み古来には神事で神様の心を和らげる意味があったらしい。神様でない私には、舞台裏を堂々と見せられているようで違和感を覚えた。昔はあり得ないことだと思いながら、小学生の時の山手線で見た風景を思い出した。
 ステッキを持ち中折れ帽をかぶり上等な背広を来た小柄な老人が車内を小走りに歩く。後から秘書らしい中年の男が大きなカバンを大事そうに抱えて懸命に続く。ブツブツ言いながら邪魔になる乗客の組足をステッキで叩く。乗客も呆れるばかりだ。運転手付きの社長車に乗る人物が何故かこうなったようだ。そうでなければ喜劇映画の一幕だ。オーナー社長風の老人は車内を自社の廊下と同一視し、化粧をする若い女性は車内を自宅の化粧室とか洗面所と思っている。2人とも“場違い”を地で行く。
 でも、もしかしたら。3年間勤務したミャンマーのアーロン(現ヤンゴン市内)にあった英軍捕虜収容所での会田雄次氏(西洋史学者)の体験に繋がるのではないか。収容所では強制労働として英軍兵士の部屋の清掃作業もある。ある日、部屋に入ると、女兵士が全裸で鏡の前で髪をすくっていたが平然としている。常識では考え難いが、日本人を家畜と同様に考えているようだ。犬や猫に見られても恥ずかしがることもない。西欧人の人種差別意識を暴き出したと言われる。
 車内で化粧に勤しむ彼女は“場違い”の意識でなく、他の乗客を家畜並みに考えているのではないか。目的地の駅に到着した。ドアが開き、犬が出る。猫、牛、馬、私と続く。彼女は動物に目もくれず化粧に専念している。でも、車内の女性全員が化粧をし始めたら、犬も猫も牛も馬も居た堪れずに噛みつくかもしれない。いや、更に老若男女全員が自分以外を動物と考えて、化粧だろうが何だろうが勝手にやれば、車内は大混乱、カオスとなる。アーロン収容所では英軍の武力が動物達を統制しているに過ぎない。
 そう思いながら、雑踏の中で他人と接触しないように上手に歩いている自分に気づいた。

(参考文献)会田雄次(2018)「改版 アーロン収容所-西欧ヒューマニズムの限界- 」(中公新書)

(執筆:元杉 昭男

日々是総合政策No.289

スウェーデンの地方税(1)-本コラムの主題

 これからスウェーデンの地方税を取りあげます。今回は同国の地方税の基本的な特徴を紹介し、本コラムの主題を提示します。
 スウェーデンの地方政府は20のランスティング(都道府県に該当、以下、県と略記)と290のコミューン(市町村に該当、以下、市と略記)からなります。以下の地方税とは、県税と市税の両方を指します。
 スウェーデンは地方分権の国で、地方政府が当該地域の公共支出の提供責任を負います。これは、国よりも地方政府の方が地方支出に対する住民のニーズを熟知していると考えるからでしょう。同国の地方支出の中心は、医療(県が担当)、教育・児童保育・介護(市が担当)です。
 地方支出を賄う税については、地方政府に「どの税を採用するか」という税目の選択権は与えられず、勤労所得税のみが認められています。なお、同国の勤労所得税の課税対象は労働所得だけでなく、失業給付・疾病給付・年金等を含みます。労働に伴うリスク-失業・疾病・退職-に直面している「広義の勤労者」の得る所得(社会保障給付)も、リスクに直面していない勤労者の労働所得と同じように課税するという考え方と思われます。年金も課税するので全世代型勤労所得税です。
 他方、地方政府は税率決定権を持ちます。2021年の290の全市における税率(県と市の合計税率)を見ると、29.08%から35.15%に分布し平均は33.17%です。しかし、全市の約80%が32.05%から34.95%に属しています(注に基づき、筆者算出)。なお、同一地方政府内では均一税率(比例税率)で、住民の勤労所得額に関わらず同一の税率が適用されます。
 本コラムでは、勤労所得税のみを地方税とする方式(以下、単一税方式と略記)に注目します。他の多くの国々は地方税として多様な税を採用しているからです。たとえば、日本では、勤労所得税をはじめ資産所得税・法人住民税・固定資産税・地方消費税などが地方税です。いわゆるタックス・ミックス型ですね。スウェーデンの単一税方式のメリット・デメリットは何か?この点を考えます。


Statistiska Centralbyrån, SCB(2024)https://www.statistikdatabasen.scb.se/pxweb/sv/ssd/START__OE__OE0101/Kommunalskatter2000/ 2024.1.10参照。

(執筆:馬場 義久)

日々是総合政策No.288

再考:純資産税(11)-超富裕層の脱税

 今回は、Alstadsæter et al.(2019)の研究に基づいて超富裕層による脱税の実態を紹介します(注)。言うまでもなく、脱税(Tax Evasion)は税法違反であり処罰の対象となります。
 この研究は、北欧(スウェーデン・ノルウェー・デンマーク、以下同じ)の居住者が、海外(非居住地)の金融口座を利用して行った脱税を資産階層別に推計しています。北欧は他の多くの国と同様、世界所得課税方式を採用しています。よって、その居住者は、海外の金融機関にある資産や資産所得を申告し納税する義務があります。
 分析に使用したのは、主に、スイスのHSBC銀行及びモサック・フォンセカ(Mossack Fonseca:パナマの法律事務所)のリークデータです。前者はSwiss Leaks(2007),後者はPanama Papers(2016)と呼ばれます。ちなみに、前者では、顧客30412人(その大部分が脱税者)の内部記録が漏出しました。
 この研究は、リークデータの隠し口座等とノルウェー・スウェーデン・デンマークの申告書データ等を照合し、三国をあたかも「北欧一国」であるかのように統合した上で、家計における資産階層別の脱税を推計しました。なお、北欧では資産・所得のミクロ・データが整備されています。
 その主な推計結果は、全家計を純資産保有額の多い順に並べた最上位0.01%の家計(純資産保有額5000万ドル超)の脱税率が25%というものです。ここで脱税率は、海外の金融口座による脱税が、支払うべき税(=海外口座分の税+国内の純資産税・資産所得税・勤労所得税等)に占める割合です。
 なぜ、このような超富裕層の脱税が可能なのか?この研究によれば、たとえばスイスに、資産隠しなど「脱税サービス」を売る銀行が存在するからです。この種の銀行は、主として超富裕層を顧客とします。この階層からは巨額の料金収入が得られ、しかも、顧客数が少人数なので発覚の確率が低くなるからです。
 以上から、Alstadsæter et al.(2019)は、超富裕層の脱税を減らすには、脱税の需要者(脱税者)に対する刑罰の強化より、脱税サービスの供給者(金融機関等)に対する制裁が有効と述べています。

(注)
 Alstadsæter, Annette, Niels Johannesen, and Gabriel Zucman (2019) “Tax Evasion and Inequality.”American Economic Review 109 (6): 2073–2103.

(執筆:馬場 義久)

日々是総合政策No.287

再考:純資産税(10)-潜在的長所

 今回は、純資産税の長所を資産所得税や相続税と比較しながら考えます。ご存じのように、米国では超富裕層への富の著しい集中が生じています。2019年の純資産保有家計を保有額の多い順に並べたとき、その最上位1%の超富裕層が、全米家計の純資産の41%を保有しています(本コラムNo.263より。)。
 このような超富裕層への資産集中の是正を税制で図るとします。この場合、純資産税には以下の長所があります。
 第一に、累進的な純資産税は資産保有自体の格差を課税前より縮小します。他方、キャピタルゲイン税などの資産所得税は、資産自体ではなく資産の生み出す収益に課税するので、累進的タイプであっても、資産所得の格差を是正するだけです。また、相続税の課税対象は相続資産ですから、自らの起業(創業)によって蓄積した資産などには課税できません。
 第二に、純資産税は資産格差の是正を素早く行います(注、p.500より)。他方、キャピタルゲイン税や相続税は課税に長い時間を要します。キャピタルゲイン税は、株式等の資産の売却額から購入額を差引いた額に課税するので、資産の売却を待たなければなりません。もちろん、相続税は超富裕層の死亡が課税の条件です。
 しかし、上記の純資産税の長所は「潜在的」なものに過ぎません。その実現には、少なくとも以下が必要不可欠です。
 第一に、納税単位-個人あるいは夫婦・世帯など―ごとに、その保有資産をもれなく捕捉できる徴税システム。これはマイナンバーによる公金受取口座の紐付けで済む問題ではありません。少なくとも、各銀行口座の預貯金、各特定口座の金融資産、及び別荘を含む不動産の納税単位別紐付けが必要です。
 第二に、超富裕層による課税資産から課税優遇資産への振替えを防ぐ措置。そのためには、課税対象を広くして、非課税扱いなどの課税優遇資産を少なくすべきです。しかし、これまでの純資産税採用国は、価値評価の困難さや産業保護の理由から、非上場株・農地などを課税優遇扱いにしてきました。この事実をふまえた対策が求められます。
 第三に、純資産税を採用していない国々や、いわゆるタックスヘイブン(租税回避地)への資産移転を防ぐ国際的なシステム。


Summers, A. (2021), Ways of taxing wealth: alternatives and interactions. Fiscal Studies, 42, 485–508.

  (執筆:馬場 義久)

日々是総合政策No.286

私の忠犬ハチ物語

HP:「東大にハチ公と上野英三郎
博士の像を作る会」事務局

 渋谷駅前のハチ公像は外国人の写真スポットとなっているが、今年は秋田県大館市に生まれたハチの生誕百年である。飼い主の上野英三郎博士(東大教授)は我が国の農地の灌漑排水や区画整理など土地改良技術の始祖で、ハチは秋田県庁の教え子から贈られた純粋種の秋田犬だった。子供のいない先生夫妻はわが子のように可愛がったが1年半後に先生は急逝した。
 先生の自宅は渋谷駅と農学部のあった駒場の中間にあり、講義には駒場に向かい、出張には駅に行く。先生死後にハチは長期出張と考え10年間駅に通い続けた。焼き鳥欲しさではない。夜行列車で朝に駅に着くために店が開く夕刻でなく朝から待ち、死因も串ではなく癌である。
 先生の学科出身の私は、10年前、東大本郷キャンパスに上野博士とハチが一緒にいる銅像を造る事業の手伝いを頼まれた。発案は、東大文学部哲学研究室で動物と人間との関係を研究テーマにする一ノ瀬正樹教授である。ハチだけが渋谷駅に鎮座し、先生の胸像は学科の入り口にポツンと置かれていて、学生が胸像を担いで渋谷まで行き、ハチと対面したこともあった(現在、胸像は資料館にハチの臓器と一緒に陳列)。
 寄付集めは同窓生以外に、獣医学関係者に協力を求めたが意外にも冷淡だったが、関連団体の会報に紹介文を載せてもらった。最後には土地改良事業関係の計画・設計会社に頼んで1000万円近くを集めた。ハチジュウ(80)年目の命日、2015年3月9日に除幕式が挙行された。500人余りの人だかりには、見事な体形の秋田犬とデビ夫人もいた。
 大型犬は人に飛びついて転倒しないように訓練するとも囁かれ、それでは訓練失敗例の像になってしまう。たが、一ノ瀬教授は「犬は人間より道徳的に高潔である」と言う。忠人○○公と呼ばれるのは難しい。

(参考文献)ご興味のある方は、「一ノ瀬正樹・正木春彦編(2015)、東大ハチ物語、(一社)東京大学出版会」をご一読願います。

(執筆:元杉昭男)

日々是総合政策No.285

農作業準備休養施設

 米の生産過剰の中で政府米価引上げのエネルギーを農村の生活環境改善に向ける。農林水産省では昭和40年代から西欧を参考に農村整備事業を推進した。その事業計画担当になった私は、限られた予算額の中での事業計画調整に苦労した。多くの要望の中に、農地の真ん中に、休憩施設、更衣所、水飲・手洗場、トイレ等を備えた共用の建物である農作業準備休養施設の助成があった。農家は自宅の周りに耕作する全農地があるわけではない。小面積で分散した農地を沢山持っている(注1)。どうしても通作距離が長くなる。農水省の進める経営規模拡大をすればさらに長くなる。そんな事情もあって、農機具、肥料、農薬等の農作業の準備の他に、共同作業の調整を行い、農家同士が語らいながら昼食を取り、休養し、泥などをシャワーで落とし帰宅する。時には地域の人々の会議室にも使える施設である。
 一番重要なのはトイレで、作業中に尿意を催した時に一々自宅に帰るのは困難だ。それなら、工事現場で見かける簡易トイレだけの設置で良いではないかと言ったら、女性は見通しの良い広々した田んぼの真中で簡易トイレに入る姿を見られることに抵抗があると反論された。結局、駐車場も付いた集会室・トイレ・シャワーなどを備えた施設が整備されたが、夜間に若い男女がラブホテルに活用する例が出てきた。
 事業の費用対効果は都市と違って人口の疎らな農村では難しい。農林水産省も灌漑排水・農道・区画整理などの農業事業と一体的に整備して効率化する事業計画を進めた。当時、若き日の黒川和美先生が強調された「結合供給」(注2)論に心酔していた私には思いもよらぬフリー・ライダーの出現だった。それから30年、東日本大震災が発生した。津波被災地の集落が高台移転した後、復旧農地の真ん中に3階建ての堅牢な農作業準備休養施設を作り、津波時に作業中の農業者が自宅に帰らず、農機具とともに施設に退避し上層階または屋上に避難する。避難車の渋滞を緩和し農業者以外の避難場所にもなる。そんな計画を提案した。甦る結合供給。ただし、夜間の施錠だけは厳重に。

(注1) この状態を零細分散錯圃と言われ、我が国の農業構造的弱点である。
(注2) 「日々是総合政策No.98」を参照願います。

(執筆:元杉昭男)

日々是総合政策No.284

再考:純資産税(9)-相続税との比較

今回は、資産の世代間移転に注目し、累進的な純資産税と相続税を比較します。純資産税が毎年の資産に課税し資産保有の格差を是正する一方、相続税は親の死亡時に相続する資産に課税します。つまり、相続税は世代間の資産移転税です。
 たとえば、超富裕な親から莫大な遺産を相続した子は、自身で稼がなくても大学への進学を目指せます。逆に、家庭が貧しいために大学進学を断念する子もいるでしょう。
 相続税は,高額の相続ほど手取り資産を大きく減らし、後の世代での機会の不平等を緩和します。また、多くの場合、超富裕者の子が得た相続財産の大部分は彼の努力(労働供給等)の結果ではなく、裕福な家に生まれたという幸運によります。この時、相続税は強い説得力を得るでしょう(注、p.356より)。
 他方、個人単位で納税する累進的純資産税は、超富裕家計における資産の世代間移転に「補助金」を与えます。いま、3億円までの資産は課税せず、それを超えた額に5%の税を課すとします。10億円の資産を保有する親が4億円を、保有資産ゼロの子に移転すると、親の税は2000(=3500-1500)万円減り,子の税が500万円増えて、親子の合計で税が1500万円減ります。つまり、減税により超富裕家計の世代間移転を後押しするわけです。
 しかし、相続税にも課題があります。
 第一に、「死亡時のみの課税」が超富裕層に租税回避の時間を与えます。彼らは、早い段階から有能な税務専門家を雇い、様々な租税回避を図ることでしょう。
 第二に、本来、累進課税すべきは生涯にわたって得た相続の累積値です。よって、死亡時以前の生前贈与の捕捉が必要です。
 第三に、実際には課税ベースが狭くなります。配偶者の相続税は、配偶者控除や非課税措置により大幅に軽減され、また、家族間のスムーズな事業継承を狙って、農地・非上場株式等が非課税扱いにされます。
 最後に、注のp.357が示唆するように、機会の不平等緩和策について、相続税と他の施策(教育費援助策等)との役割分担も求められます。


 Adam,S., Besley,T., Blundell,R., Bond,S., Chote,R., Gammie,M.,et al.(2011),
  Taxes on wealth transfers. In Tax by design, The mirrlees review ,
  pp.347-367, Oxford University Press.

                        執筆 馬場義久

日々是総合政策No.283

社会保障の財政安定化と予防医療(下)

 日本の社会保障においては、給付の範囲と方法の見直し(自己負担の調整を含む)の他に、社会保険料等の財源の安定確保が重要課題になっています。これについて、予防医療の促進と併せた検討が有用とされ、一例として前回(No. 282)は、健康経営、健康日本21、データヘルス計画を見てきました。
 これらは、2010年代前半から段階的に実践されており、普及・浸透と成果の向上に向けた調査・研究が進められています。主な課題として次の3つがあげられ、第1は一次予防から二次予防までの強化にあります。健康経営、健康日本21は一次予防が基本になっていますが、一定の成果を確保して重症化の抑制につなげる上で、データヘルス計画を踏まえた対応が重要とされます。具体的には、医療保険者と医療機関の連携を強化した上で、各人の保健・医療データを早期発見・早期治療にも活用する体制が必要になります。
 第2は、セルフケア(セルフメディケーションを含む)の促進です。予防医療は、主に国と地方自治体、企業(雇用主)、医療保険者により提唱されていますが、各人・患者の主体的参加が前提になります。この場合にはセルフケアが有用とされ、予防への参加意識を高める情報の提供と活用が必要になります。これは、次の第3の課題にも関係しており、特にPHR(Personal Health Record)の導入・活用を指しています。
 PHRは、バイタルデータ、検査結果、治療・服薬歴等の情報が電子化された個人記録であり、狭義には患者と医師(担当医)において共有されます。利活用の機会としては、対面診療や遠隔診療に限らず、上記のセルフケア、健康管理や在宅医療があげられます。PHRは、各人・患者がこれらに長期的に参加するための情報にもなりうるとされ、医療IT(ICT)化の一つとして検討が行われています(注1)。
 これらは、医療制度のあり方に関係する課題でもあります。医療制度は、主に外来・入院治療の提供体制と診療報酬、保険給付の範囲と方法により規定されますが、現代では多様な要因を踏まえた議論が必要になっています。少子高齢化の進行と労働力人口の減少、各健康リスクや疾病構造の変化に対応する施策の一つとして、予防医療を促進する方向での検討が有益と考えられます(注2)。

(注1)PHRについては、主に次の2つを参照。日本版PHRを活用した新たな健康サービス研究会(2008)「個人が健康情報を管理・活用する時代に向けて−パーソナルヘルスレコード(PHR)システムの現状と将来」http://www.meti.go.jp/policy/mono_info_service/
downloadfiles/phr_houkoku_honbun.pdf#search(2018年7月21日最終確認)、厚生労働省(2020)「PHR(Personal Health Record)サービスの利活用に向けた国の検討経緯について」https://www.mhlw.go.jp/content/11909500/000741661.pdf(2021年12月25日最終確認)。PHRは、各人に健康と医療の情報を提供するツールの一つとして有用ですが、これを導入する際には、個人のプライバシー保護の方法についての検討も必要になります。
(注2)日本の医療制度は、1961年以降、社会保障の中核として拡充されており、これが広く浸透する中では、短期間に制度の見直しを行うことはできないと考えられます。上記3つの課題についても、一次予防と二次予防の連携、担当医(かかりつけ医)と診療報酬のあり方、予防医療におけるIT(ICT)化の方法等の検討が必要になります。こうした課題が残されていますが、健康維持・増進(あるいは健康寿命の延伸)の重要性が高まり、また、検査機器と治療技術の高度化により、早期発見・早期治療の成果向上が期待される現代では、予防医療には大きな意義があると考えられます。これは、医療制度改革、社会保障財政に限らず、広くは経済に関係するテーマでもあり、日米の事例を参考に、機会をあらためて検討します。なお、アメリカにおける予防医療は、民間ベースでの運用・管理が基本であり、1980年代以降、民間保険団体(企業と保険団体の連携を含む)のプログラムとして広く実践されています。成果の一例として同国では、生活習慣病の中でも大腸がん、胃がんの罹患者数と死亡者数が(対人口比で見て)減少傾向にあります。これについても、日米における予防医療の具体策と動向を踏まえ、新しい資料を参考に別の機会に考察することにします。

(執筆:安部雅仁)

日々是総合政策No.282

社会保障の財政安定化と予防医療(中)

 予防医療は、本来、医学・医療の一領域として研究、実践されますが、社会保障の中でも年金と医療の財政安定化において有用と考えられています。今回は、関連施策の一例として、健康経営、健康日本21、データヘルス計画を取り上げます(注1)。
 健康経営の目的は、労働者の健康と生産性を管理して、健康に関連するコストを抑制することにあります。こうしたコストは、各労働者の健康リスクの数と状態によって異なるとされ、1人あたりでは1年間に最大で90万円程度になると推計されています(注2)。図1は、実態調査の一例として、総コストの内訳を見たものです。

図1 健康関連総コストの内訳

出典)厚生労働省(2017)「コラボヘルス ガイドライン」厚生労働省保険局、p.35等より作成。
注)「プレゼンティーズム」は心身の健康状態が良くない中での就労、「アブセンティーズム」は傷病の治療のための欠勤それぞれに伴う生産性の損失(ロス)を指している。これらは、医療費(薬剤費を含む)や傷病手当金支給額、労災補償費につながる要因にもなる。上記の割合は、小数点第2以下の四捨五入の関係で100%にはならない。

 健康経営においては、各企業と医療保険者(主に健康保険組合、協会けんぽ)の連携により、プレゼンティーズムを抑制することが重視されます。具体的方法は、定期健診と特定健診、ストレスチェックにより健康リスクを把握して、ウェルネス・プログラムやワーク・ライフ・バランスの実践によりこれを低減させることにあります(注3)。こうした取り組みは、各労働者のQOLと生産性の維持の他に、長期就労が可能になった際には、年金財源の負担者の維持・増加において有用とされます。
 健康日本21の基本目的は、各人の健康寿命を延ばした上で、平均寿命との差を縮めることにあります。QOLの長期的維持が要件とされますが、健康リスクは年齢や性別により異なるため、これに応じた対応が必要になります(注4)。この中でも、労働者の家族(配偶者、高齢者等)の健康増進は、上記の健康経営との関係において有益とされます。家族(遠方に住む家族を含む)の誰かが外来・入院治療や在宅ケアを受ける際には、付き添いや看病のための欠勤・休職が必要になるケースがあります。これに伴う生産性の低下を抑制する上でも、家族の健康が重要になります。
 上記2つの施策について、根拠に基づく保健・医療サービスが提唱されています。データヘルス計画はこれが想定され、保健・医療データの活用が基本になります。具体的には、①定期健診と特定健診の結果やレセプトの情報収集、②健康リスクの種類や発症リスクの分析、③健康管理と保健指導、二次予防への情報の活用があげられます(注5)。これらは、医療費(健康保険料)の増加率抑制につなげる上でも有用と考えられています。

(注1)健康経営については、No.92のエッセイを参照。健康日本21については、厚生労働省(2012)「健康日本21 総論」https://www.mhlw.go.jp/www1/topics/kenko21_11/pdf/s0.pdf(2018年12月14日最終確認)、データヘルス計画については、厚生労働省(2017)「データヘルス計画 作成の手引き(改訂版)」https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-12400000-Hokenkyoku/0000201969.pdf(2020年9月23日最終確認)等を参照。
(注2)健康リスクについては、No.278のエッセイを参照。
(注3)ウェルネス・プログラムは、各職場内での健康増進の取り組みを指しています。この場合には、業種・職種に応じたプログラムが望ましいとされます。
(注4)具体策の一つとして、各医療保険者やIT関連企業は、生活習慣の改善や健康管理、セルフケアの情報を提供しています。
(注5)二次予防は早期発見・早期治療が基本であり、早期発見はCTやMRI等による精密検査、早期治療は検査結果に基づく初期段階での治療をそれぞれ指しています。

(執筆:安部雅仁)