日々是総合政策No.47

日本的論理を疑う(1)

 今年の大学1年生向けの授業で「よみやすい日本語」をテーマに取り上げた。句読点の打ち方、修飾語と被修飾語の意味、複数の修飾語の並び順、パラグラフまたは段落の意味と役割、文章の作成方法など、「よみやすい日本語」とは何かについて資料を使って説明した。
 このテーマにこだわってきた背景には以下の点がある。
 第1に、日本では自分の書いた日本語の文章について他人が批評・コメントすることはほとんどない。だから、意味不明でも誤字脱字であっても、不適切なものがそのまま活字となってしまう。その「過去は取り戻せない」まま、永久に記録・記憶されることになる。特に若い時に書いた文章にはそうした不適切なものが多数混ざっている。
 第2に、経済学の勉強を志すようになってから読んだ日本語の教科書は、何度読んでも理解できないものが多かった。当初は自分の読解力不足だと思っていたが、乱読するうちに問題は自分でなく相手、つまり著者である研究者や大学教員であると思うようになった。なぜなら、書いてある内容を全部理解できる本があったからである。
 なぜ、ある本は理解することが難しく、ある本は容易なのか。理解することが難しい原因としては、読み手の能力不足を別にすれば、以下のような理由が考えられる。
 第1は、書き手が「よみやすい」「理解しやすい」日本語に気を遣って書いていないこと。第2は、書き手の日本語表現力自体に問題があること。第3は、読み手が一定の予備知識を持つことを前提に書かれていること。第4は、公式を知っていても、その応用問題を理解するには時間がかかること。第5は、論理は簡単でも、それが積み重なると、最初の論理とあとの論理の関係がわからなくなってしまうこと。
 米国や世界で売れている経済学の英語の教科書を読むと、日本語の教科書とは雲泥の差があることに気付かされる。上記の問題点のほとんどが解決されており、分量や論点が多いにもかかわらず、すらすらと理解できるのである。どうせ勉強するなら、日本語でなく英語の教科書で勉強してみてはどうだろうか。

(執筆:谷口洋志)

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