世界にはびこる不正義を許せるか(2):被害者と被害の権利と存在が無視される日本
18世紀初頭に,イギリスの小説家ダニエル・デフォーは、「ロビンソン・クルーソー」の物語を発表し、クルーソーが無人島に漂流してから自力の生活を経て28年後に帰国するまでを描いた
その生活が希少な資源を有効に利用し最大限の効用(満足)を得ようとしたかのように読めることから、経済学者は好んでロビンソン・クルーソーの世界を語ってきた。何とかその日暮らしをしてしのいでいるうちに、いろいろなことを考えて生き延びる知恵を身に着けるという点に経済学者は着目するのだが、不思議なことに、クルーソーの生活における孤独でみじめさな面には経済学者は関心がない。
ところで、デフォーが書いた小説としてほかに『モル・フランダーズ』(岩波文庫)がある。この作品は、波瀾万丈の女性を描いた小説であり、英国女流作家V・ウルフも絶賛した傑作である。この女性は若い時期に不幸な恋愛を経験してから虚栄の結婚生活を送るようになり、中年になってからは窃盗犯として数々の犯罪を実行する。絶対に捕まらない常習犯と噂されたモルだが、最後には捕まり、米国への流刑罪となる。
物語中には、モルがどのように窃盗を行ったかについて詳細な描写がある。デフォーは、この小説は犯罪を奨励するものでなく、一般人がこれを読んで犯罪防止に努めてほしいという教訓を込めて書いたのだと弁明している。数え切れない窃盗で得た財産を元手に、老後のモルは豊かな生活を送り、宗教心に目覚めていくという結末は、モルの人生の前半よりも後半の意義を説いたものと考えると、デフォーの主張も理解できないわけではない。しかし、被害者が被った苦痛や損害がどれだけ大きいかは、デフォーとモルの関心事ではない。
この小説を現代の日本人が読んだら、多くの人が面白いと思うことだろう。最後は宗教心に目覚めるという結末に共感を覚える日本人も多いに違いない。しかし、私はそうは思わない。主人公のモルの描き方こそ、今日の日本の病理を表している。つまり、加害者の言い訳ばかりが強調され、被害者の存在や金銭的・物理的・精神的・心理的な被害には無関心だという「病理」だ。
(執筆 谷口洋志)
*本文の後半は、筆者の「あまのじゃくの経済学」『改革者』から一部引用しています。