反知性主義VS.大学教育?
批判的知の軽視、感情による物事の判断、ある現象を理解する際に多様性の一切を捨象し単純化することなどを特徴とする、「知的な生き方」の軽視あるいは敵視は、反知性主義と呼ばれている。そして、このような知識への認識・態度は、批判的に物事を考える力や、論理や根拠に基づいて判断する能力、物事の多様な側面を理解する能力を育もうとする大学教育の側には脅威となっており、大学教育側、特に人文系の学問領域においては批判的に言及されることが多い。
確かに現代日本社会における外交関係や「ひきこもり」「格差」といった問題をめぐって飛び交う感情的で断定口調の言説を見るならば、大学教育側から反知性主義へと向けられる批判の重要性は否定できない。だが、特に「感情」を巡っては、反知性主義VS.大学教育という枠組みの安易な採用には慎重になる必要があると考える。
この二項対立的図式の限界は、そもそも境界線が流動的で曖昧なことを把握できないことにある。より正確にいえば、「感情」が時に学問の礎になることを見落としてしまう点にある。たとえば、フェミニズムの黎明期に議論を支えたのは、社会に対する「不満」であった。同様のことがポストコロニアル理論にも言える。20世紀に入り植民地の多くは独立したが、旧植民地に対する旧宗主国の文化的・政治的な影響は残り続けた。旧宗主国と旧植民地の間で揺れる/揺さぶられる人々(たとえば旧植民地出身の「イギリス人」)の「居場所の無さ」や「不満」は、ポストコロニアル理論を生み出す原動力ともなった。これらが意味しているのは、(全てではないにせよ)大学教育には、「感情」を最終審級ではなく問いの起点に昇華し、これまで顧みられることの無かった個々人の「不満」や「不安」を、他の人々に理解されうる概念や論理に翻訳する方法が備わっている、ということである。
もちろん、反知性主義を消し去ることはできないだろう。だが、「大学教育」には反知性主義を前に、それらをやみくもに拒否・否定したり、逆に諦念に陥ったりすることとは異なる道もある。その道は、反知性主義VS.大学教育という図式に挑戦する道でもある。
(執筆:山内勇人)