日々是総合政策No.69

「ノー・チャンス・マダム」(上)

 これは、私が雇っていたナイジェリア人のドライバーが、アフリカ滞在中の私を揶揄してつけた呼称である。当の私は、知り合いのマダムに言われるまで、自分がそのように呼ばれていようとは、全く知らなかった。はて、それが日々是総合政策といかなる関係があるやなしや。。。
 1996年、外交官の夫は留学先のイギリスから直接、最初の赴任地であるナイジェリア連邦共和国に行くこととなった。大学卒業後すぐに結婚し、留学2年目から夫に合流していた「新婚さん」である私は、「誰がアフリカにいくんだろうねぇ」と小指を立てて午後のお茶を飲んでいたら、白羽の矢が当たったのは自分達だった、というオチである。日本に寄ることは許されないので、山のような予防接種をロンドンでいっぺんに受ける羽目になり、帰宅時に見上げた真っ黄色な太陽に立ちくらみ、しばらく道端にしゃがみ込んでいた記憶がある。
 滞在期間は、1960年の独立以降続いた、共和制と軍事政権のスパイラルの真っ只中だった。1998年アバチャ将軍(第三次軍政)の急死で、民政移管を期待していた世間はさらに荒れた。空港までの道路には、火をつけた廃タイヤのバリケードが築かれた。タイヤは石油とゴムで出来ているからか、ゆっくりよく燃え、アスファルトに伝熱させて交通を遮断できる最も手近な方法なのだ、ということをここで学んだ。民政移管したのは1999年、プスプスと微かな音を立てながら煙を出すアスファルトを超えて私たちが帰国した翌年だった。
 近年、アフリカは、たった20年余りでその頃とは比べものにならないほど経済成長を遂げ、台頭した中国の資本も多く投下され、アフリカ諸国の立場も強くなった。その変化は、2008年の第4回以降のアフリカ開発会議(TICAD:1993年以降日本政府が主導して、国連、国連開発計画(UNDP)、世界銀行、およびアフリカ連合委員会(AUC)と共同開催している国際会議)に見て取れる(注)。それまではアフリカ経済の低迷から、アジア経済の経験の強調、貧困削減、特に日本の援助理念の到達点とされる「人間の安全保障」の観点の共有が主な課題だったが、2008年の第4回以降は、経済成長と民間投資の促進も関心の的となった。(続く)

(執筆:杉浦未希子)

(注)TICADは、Tokyo International Conference on African Developmentの略である。1993年以降、第7回にあたるTICAD7が、2019年8月28日から30日の期間、横浜で開催され、閉幕時に横浜宣言2019が出されたのは記憶に新しい。TICADの変遷は、高橋基樹(2017)「TICAD の変遷と世界:アフリカ開発における日本の役割を再考する」『アフリカレポート』55:47-61、日本貿易振興機構アジア経済研究所(http://hdl.handle.net/2344/1610 2019年9月17日閲覧)が詳しい。また、UNDPはUnited Nations Development Programme の略、AUCはAfrican Union Commissionの略である。

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